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2016.11.01  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

休学、日本へ

──そんなにつらいのなら大学を辞めてしまおうかとは思わなかったのですか?

何度も思いましたよ(笑)。その頃、後の僕の画家人生を決定づける大きな出来事がありました。ある公募展に、先程話した膠を混ぜた絵の具で描いた作品を出品した時、それを見たお客さんから「よくわからないけど、この絵は昔から日本で使われている技法で描かれた絵と似ているね」と言われてとても驚きました。僕の発明だと思っていた技法が日本ではずっと昔からあったのか! と衝撃を受けたんです。

僕自身も開発したての技法で不安があったので、日本に行ってもっと知りたいなと思いました。それでちょうどその頃、大きな作品の注文制作をいただいてけっこうお金が入っていたので、入学して1年が終わったタイミングで休学して日本に行くことにしたんです。1982年、19歳の頃でした。


──来日する前の日本のイメージは?

完全に未知の世界でした。60~70年代に日本に行ったことのある友人のお父さんの話では、「あまりにも大気汚染がひどくて日中街灯が灯されている」とか「みんなマスクをつけてる」とか「人々が外に出なくても買い物できるように地下商店街が充実している」ということだったので、正直日本にはあまりいいイメージがなかったんですね。だからこの時点では画材や技法は知りたいと思っていたのですが、住みたいとまでは全然思っていませんでした。

岩絵具との出会いに衝撃

──日本に来てからは?

アラン・ウエスト-近影6

来日して最初に住んだのは愛媛県の新居浜市というところでした。早速いろいろ画材屋を巡ったのですが、その中で天然の鉱石を粉末状にした顔料である岩絵具と出会った時、衝撃を受けました。僕がアメリカで使っていた化学顔料は色合いや描く時の感触がプラスチック的で、植物などの自然を表現するにはどうしても好きになれず、大きな悩みのタネでした。でも日本に来て岩絵具に出会った時、なんてきれいなんだと感動したんです。色あいや発色が大好きで仕方がなくなりました。しかも化学顔料と違って色あせもしない。素晴らしい絵の具だなと。

岩絵具自体には固着力がないので、画面に定着させるため、接着剤の役目をする膠を混ぜます。僕はアメリカでは兎の膠を使っていたのですが、ものすごく臭くて濁っていました。でも日本では昔から鹿の膠が使われていて、これは臭わないし透明度がすごく高いので顔料がきれいに見えるんです。これにも感動して、これこそ僕が描きたい絵をイメージ通りに描くために求めていた絵の具だ、日本に来て本当によかった! と思いましたね。

それから、和筆を本格的に使い始めたのも大きかったですね。僕は絵を描く時に一番大事にしてるのは「線」なんですね。和筆だと僕のイメージ通りに細い線や太い線を自由自在に描けるんです。これを覚えちゃうともうほかの筆は使えません。

肥痩線(ひそうせん)ってわかりますか? 鹿野派にあった筆法なんですが、同じ線でも細くなったり太くなったりすることによって豊かな表情の絵や動きのある絵が描ける技法です。「鳥獣人物戯画」が肥痩線で描かれてる代表的な作品です。植物を描くときも和筆なら葉脈や枝の曲がり具合をまるで生きているもののように表現できる、いわば絵に魂を吹き込むことができるんです。こういう画材、道具との出会いでずっと日本にいたいと思ったんです。


──画材との出会いだけで異国でずっと暮らそうと決意したというのもすごいですね。

アメリカにいる頃の僕は、自分のイメージする絵を描くために長年画材と戦っていたんです。それは絵描きにとってはものすごいストレスで、それから解放してくれたのが岩絵具や鹿膠や和筆だったわけです。僕にとって、もう画材と戦わなくていいという解放感や自分が表現したいように自由に絵が描けるという喜びは、言葉の問題とか遠く離れた見知らぬ国で家族と離れて暮らすといったデメリットを補ってあまりあるメリットだったんですよ。それで、アメリカの大学を卒業したらすぐ日本に戻って画材屋のそばに住みたいと思っていたんです。

日本画の画材との出会いがアランさんの運命を決定づけた

日本画の画材との出会いがアランさんの運命を決定づけた

つくば万博で再来日

──ということは日本に住むことに悩みや葛藤はなかったんですね。

特になかったですね。1983年に2年間の休学期間を終えてアメリカに戻ったら、また化学顔料と兎膠を使って絵を描かざるをえないのがすごくつらくて、早く日本に戻りたい! と思っていました。

でも大学を卒業する前にまた日本に行くチャンスが到来しました。ある日、アメリカ政府から電話がかかってきて「アラン君は2年間日本にいたから日本語が堪能らしいね。ついては1985年に日本で開催されるつくば万博で、アメリカ館の通訳と展示案内をやってくれないか」と依頼されたんです。日本にいた2年間で日本語はほぼマスターしていたし、また日本に行って美術の勉強ができるし、何より画材が買える! と思って即、快諾。また1年間休学することにしました。

再び来日してまず最初に行ったのが、東京の谷中にある画材屋さんでした。谷中は江戸時代から有名な絵描きや芸術家がたくさん住んでいて、画材屋がたくさんあったんですよ。ちなみに、日本にある日本画の画材屋は9カ所しかないんですが、その内の4カ所が谷中近辺にあるんです。この辺に東京藝術大学が設立されたのも昔から芸術の街だったからです。日本画の画材屋もたくさんあるし、昔ながらの日本の下町の風情や自然が豊富に残っていたので、谷中に一目惚れしました。それで、アメリカの大学を卒業したら谷中に住もうと決めたんです。

1年間のつくば万博の通訳・案内を終えた後、画材をしこたま買い込んで帰国し、その翌年カーネギーメロン大学を卒業。その年のうちに日本に舞い戻りました。

東京藝術大学大学院に入学

──日本に再び来てからはどうしたのですか?

アラン・ウエスト-近影7

谷中に住もうと思っていたのですが、いい物件がなかったので近くの本郷にアトリエ兼住居を借りて、東京藝術大学大学院への受験の準備を始めました。これはつくば万博でアルバイトをしている頃から考えていたことです。理由は、当時、手探り状態で膠絵を描いていたのですが、うまくいくこともあればうまくいかないこともありました。なぜそうなるのかわからなかったし、肥痩線をもっと自由自在に描けるようになりたかったので、日本画の技術をちゃんと学びたいと思っていたからです。それで再来日してから2年後の1989年、東京藝術大学日本画科加山又造研究室を受験したんです。


──なぜ加山先生の教室に入りたいと?

東京藝術大学を受験しようと考えた頃から、藝大の日本画科の先生とその生徒たちの絵をよく見てたんですね。両者の絵がそっくりの教室は受けるのをやめようと思っていました。先生が生徒に画風を押し付けているという証拠ですから。でも加山先生は日本画で初めて裸体を描いた人でもあり、琳派風に描くこともあれば、中国の南宋、宦官のような描き方もするし、新宿の町並みを日本画風に描くこともあるといったように、いろいろと意欲的に自分の表現をしようとしている画家でした。生徒たちの描いた作品からも、自分なりにいろんな表現をしているのがわかりました。

このことから加山先生はただ絵を描く技術が高いから先生になっているわけじゃなくて、指導者としても素晴らしい人だなと思ったんです。つまり、生徒たちに自分の考えや技法を押し付けるんじゃなくて、生徒たちの価値観やセンス、求めているものを尊重しながらアドバイス、指導していて、それぞれの生徒が歩んでいる道を意識して尊重しながら光を照らしてくれる人だなと思ったんですね。だから、加山先生の研究室に入りたいと思ったわけです。ただ、先生のような絵を描きたいと思っていたわけではなく、すでに自分の中に自分が追い求める、描きたい絵のイメージがあるから、そのイメージ通りに日本画を描くための技術・技法だけを学びたかったんです。

でも1回目の受験では不合格で、2回目の時に聴講生ではどうですか? と言われました

アラン・ウエスト(Allan West)

アラン・ウエスト(Allan West)
1962年アメリカ、ワシントンDC生まれ。日本画家/「繪処アラン・ウエスト」代表

3歳から絵を描き始め、8歳で画家を目指す。9歳から絵画教室に通い始め油絵を学ぶ。14歳で初めて絵の注文制作を受け、舞台背景などを描く。高校時代は絵画で大きな賞をいくつも受賞。「National Collection of Fine Arts」(現スミソニアン・アメリカ美術館/Smithsonian American Art Museum)で週2回、ボランティアとして学芸員のサポートを経験。大学は競争率50倍という高いハードルをクリアし、カーネギーメロン大学芸術学部絵画科に入学。1年で休学し、理想の画材や技法を求めて日本へ。岩絵具や膠などの日本画の画材と出会い、日本に移住して画家として活動することを決意。1987年、カーネギーメロン大学学部卒業後、日本へ。1989年、東京藝術大学日本画科 加山又造研究室に研究生として入室。日本画の技法や画材の取り扱い方を学ぶ。同時期に日本人女性と結婚。1999年、谷中に自動車整備工場を改築して、アトリエ兼ギャラリー「繪処アラン・ウエスト」を構える。以降、掛け軸、版画、衝立、屏風、襖絵、パネル画、酒瓶のラベル、扇子、着物などに作品を描き、数々の展覧会に出品、受賞多数。仕事の8割が注文制作で、クライアントも企業、ホテル、イベントホール、レストラン、神社、自治体、個人など多岐にわたる。その他、講演、ワークショップ、ライブペインティングなども精力的にこなしている。また「繪処アラン・ウエスト」で能楽などのイベントも開催している。

初出日:2016.11.01 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの