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2016.09.01  取材・文/山下久猛 撮影/大平晋也

カトリックに転向

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それで将来は神様の言葉を伝える牧師になろうと高校卒業後は、関西のキリスト教系の大学に入学し、キリスト教学を専攻しました。しかし、その大学では学ぶことの愉しさをどうしても見出せずに1年で退学をして、他大学に入学しました。3年生の時、書道の授業で出会った先生がカトリックの修道女(シスター)だったのですが、彼女はいつも精神を集中して字を書きましょうと、学生に瞑想をさせてから筆を持たせる先生でした。

実際にカトリックの教会の中には座禅を行うなど、いろいろな宗教の良いところを取り入れているんですね。歴史も非常に長いし、幅も広いのであこがれを抱き、大学3年生の時にその先生に知り合いの神父さんを紹介してもらって半年かけてプロテスタントからカトリックに転じました。

ただ、カトリックの世界を知って初めてわかったのですが、プロテスタントよりずっと厳しいんです。プロテスタントは牧師になるには4〜6年かかり、結婚も許可されていますが、カトリックの方は神父になるのに10年以上かかるし、生涯独身を貫かねばなりません。私は一人っ子で高校生の時に父親を亡くしており、母一人子一人の家族でした。そして当時はまだ自分の中の同性愛的な傾向は一過性であると信じ込んでいたので、母のためにもいずれは異性と結婚しなければならないと思っていました。だから完全独身制の世界には行けないと神父の道を選択しなかったのです。

セクシュアリティ自覚の経緯

──ご自身のセクシュアリティを自覚するまでの経緯を教えてください。

物心ついた頃から小学校3~4年生までは、言葉遣いや仕草が女性のようなところがありました。自分がそうなったのは父親が仕事に忙しく、ほとんど家におらず、母と過ごす時間が長かったからかもしれないと思っていました。同級生からは「おんなおとこ」とからかわれることも多かったですね。でも恋愛対象は女子で、小6までは好きな女の子がいたんです。

中学に上がり髪も短く切って詰め襟の学生服を着るようになってからは自分の中から女性的な意識がなくなってきました。「男性である自分」を受け入れられたんだと思います。とはいえ、物腰や雰囲気はまだまだ女性っぽく、当時は先生から「男は男らしくしろ」と言われる時代だったので、三者面談の時、先生から「もっと男らしくするために男子校に入学させたらどうですか?」などと親は言われていました。

恋愛対象は、なぜだか理由はわからないのですが、女性ではなく、男性に変わりました。男子の先輩のことが気になるようになったり、女性に人気の男性アイドルタレントが好きになったり。そんなことはそれまで思わなかったんですけどね。

高校の頃は完全に自分がゲイであるという自覚はありました。恋愛対象は男性だったのですが、誰かと付き合うということはありませんでした。周りにゲイがいるとは思っていませんでしたし。だから女子から告白された時は困りましたね。バレンタインデーの日などはひたすら逃げ回っていました(笑)。

でも当時はセクシュアリティのことをまだそれほど深刻に考えてはおらず、大人になれば他の一般的な男性のように女性が好きになると思っていました。というのは、当時よく読んでいた10代向けの雑誌に性の悩みを相談するコーナーがあって、同性愛に関する悩みもそこに寄せられていたのですが、回答者が「同性愛は20歳くらいまでには自然と治る」と答えていたので、そう信じ込んでいたんです。

大学に入ると状況が一変しました。大学時代に通っていた教会が大阪の堂山というゲイの街にあったので、ゲイの人たちを身近に見かけるようになりました。そういうこともあり、大学に入ってから徐々にゲイの人たちとの交流が増え、ゲイの街やゲイ雑誌の文通欄で知り合って実際に会ってみたり、付き合ってみたりもしました。でも、20歳を目前にしてゲイって本当に治るんだろうかとかなり焦っていましたが、まだこの時点でも将来は女性と結婚するんだと思っていました。

ただ、大学の講義ではキリスト教は同性愛を禁じていると教えられましたし、教会でも議論にすらならないタブーだったので肩身の狭い思いはしていました。

ゲイとして生きることを覚悟

──大学卒業後は?

中村吉基-近影8

金沢に戻って高校の国語の教師になりました。金沢でもゲイの友だちがたくさんできて、ゲイバーで一緒に飲んだり、よくドライブして遊びに行ったりしていました。それがすごく楽しくて。だからそれまでずっとゲイはいつか治って異性と結婚して家庭を築くと思っていたのですが、25歳くらいの時に、自分は一生ゲイとして生きていく人生なんだなと確信したのです。


──ゲイであることを認めることに関して悩みとか苦しみはなかったのですか?

それほど感じなかったですね。ああ、やっぱり治らないのかという感じでした。


──カミングアウトのタイミングは? やはり悩みましたか?

初めてカミングアウトしたのは、ゲイであることを受け入れてから2、3年後の27、8歳の頃です。少なからず不安はありましたが、相手は年上の女性で長い付き合いだったので、この人なら言っても大丈夫だろうなという安心感はありました。結果は予想どおりで、関係性は何も変わらず、今でも変わらずよき友人として交流しています。それから徐々に信頼できる友人にだけカミングアウトしていきました。

国語教師時代

──高校の国語の教師の仕事にはやりがいを感じていたのですか?

私の勤めていた学校は公立の高校で、単に国語の授業をして定期テストを行い、成績をつけて終わりという仕事に段々辟易するようになりました。本当はもっと「こころの教育」がしたくて、実際にマザー・テレサの話やアウシュビッツで殺されたコルベ神父の話などを授業の合間によくしていました。そういうときには生徒がとても興味をもって聞いてくれるようになって、普段国語の授業は全然聞かないのに(笑)、それは驚きの出来事でした。

その頃から、受験や就職のための教育じゃなくて、子どもたちに心を教えるような教師になりたいという気持ちが徐々に強くなっていきました。といっても神父や牧師など、完全に聖職者の世界に行くのではなく、高校で宗教の話を堂々とできるような場所、例えばキリスト教系の学校で聖書(宗教)を担当する教師になりたいと思い、3年で勤めていた高校を辞めて宗教科の教師免許を取得するために東京に戻ってきました。


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中村吉基(なかむら よしき)

中村吉基(なかむら よしき)
1968年石川県生まれ。日本キリスト教団新宿コミュニティー教会牧師

幼い頃から教会に通い、高校1年生の時に洗礼を受ける。大阪芸術大学卒業後、郷里の金沢に戻り、高校教師に。上京後は農業系の新聞社で整理記者、キリスト教系の出版社で編集者として勤務。同時にキリスト教系の中学や高校で聖書を教える宗教科の教員免許を取得するために上智大学で聴講し、教員免許を取得。1995年、観光で訪れたニューヨークでエイズ患者が教会から排除されている事実を知り、エイズ患者やLGBTに開かれた教会を設立することを決意。2000年、牧師になるために神学校に入学、2004年、神学校を卒業し、牧師になると同時に日本キリスト教団新宿コミュニティー教会を設立。現在は週日の3日を通信社の編集者として勤務し、日曜は牧師として礼拝を行うほか、結婚式の執行、相談者のカウンセリング、教育機関での講演・講義などの活動を行っている。

初出日:2016.09.01 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの