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2016.06.01  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

レイテ沖海戦

レイテ沖海戦で攻撃を受けている戦艦「武蔵」、奥は護衛に付けられた駆逐艦「清霜」
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レイテ沖海戦で攻撃を受けている戦艦「武蔵」、奥は護衛に付けられた駆逐艦「清霜」

その4ヶ月後のレイテ沖海戦の時も矢矧の航海士(中尉)として参戦したんだけど、この時はもうほとんど航空機もないし勝てるなんて思ってないよね。戦(いくさ)をどのくらい長引かせるかということしか考えてなかった。連合艦隊はアメリカ海軍の航空機と潜水艦の両方からやられたからひどいもんだったよ。出撃してから帰還するまで1週間くらいだったけど、その間敵の猛攻にさらされて立ちっぱなし。仮眠なんてとてもできなかった。いつ敵の攻撃が来るかわからないから。


──よく体力と精神力がもちましたね。

いやいや、そりゃあ当然だよ。そのために兵学校からずっと鍛えてるんだからもたなきゃおかしいんだよ(笑)。

戦闘の方は、今度は矢矧も敵の攻撃を受けて、兵学校のクラスメートや上官が次々と目の前で死んでいった。戦争で死ぬというのはね、交通事故なんて比べ物にならないくらいむごたらしいものだよ。そこら中に手足や肉片や内臓が飛び散って、甲板なんてまさに血の海。でも僕らは戦闘中はそれを放置したまま戦わなきゃいけない。血と硝煙の匂いがすごいんだ。

アメリカ軍の攻撃を受け沈没しつつある空母「瑞鶴」
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アメリカ軍の攻撃を受け沈没しつつある空母「瑞鶴」

敵機の爆撃が収まった少しの合間に応急食料の乾パンを食べようとしたら赤黒い色になってるんだよ。爆撃や機銃でやられた仲間の血糊で染まってたんだ。その中から血がついていないものを選んでかじりながら戦闘記録を取ったり、艦の位置を海図に記してた。

死体を処理したり内臓を集めてバケツに入れたりしていると、生と死が紙一重すぎて同じことのように感じるんだよ。立ってる位置が10センチ違っただけで生死が別れる世界。戦場における人の生き死になんて完全に運だよ。どこにいたら安全なんてことは全くない。今目の前にある死体が自分であっても何の不思議もない。本当に生も死も一緒。だから自分は今日は生き延びられたけど、明日はダメだろうという感じだった。


──そういう状況の中で死に対する恐怖は全く感じなかったのですか?

死の恐怖なんて全くなかったなあ。そんなことよりも強烈にもっていたのは使命感かな。軍人として国を守るという職務を全うしなきゃならんという使命感だよ。

この時の戦闘記録は、大した爆撃もなくて全員無傷だったのに誤字脱字だらけだったマリアナ沖海戦と正反対で、かなりやられて修羅場だったのに客観的にしっかり書けていたんだよ。マリアナからわずか数ヶ月しか経っていないのに。たぶん、マリアナの時は死の恐怖なんて感じてないつもりだったんだけど、本当は心の奥底では感じていたんだろうね。レイテの時は自分自身はちっとも変わっていないと思うんだけど、ちゃんと書けてた。やっぱりね、1回実戦を経験すると人間ががらっと変わっちゃうんだろうね。度胸がつくのかな、かなり冷静になった。これは自分でもびっくりしたし、随分自信がついたんだ。だから平時に何年もかけて一所懸命修業するよりも、わずか数日間でも死と直面する実戦を若い時にどんどん経験した方が別物になるくらい成長するってことだよね。

池田武邦著「海戦」書影
池田武邦著「海戦」原稿

終戦後、池田さんは自身の書いた詳細な戦闘記録を元にして『海戦』を執筆している。ただの記録ではなく、情景描写や心理描写などが見事で、池田さんが体験した世界に引きこまれてしまう

結局この史上最大の海戦は武蔵をはじめ愛宕、摩耶など戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦合わせて約30隻が沈められ、事実上連合艦隊は壊滅。矢矧もボロボロにやられて戦死者・行方不明者合わせて47名も出してしまった。

沖縄海上特攻

──昭和20(1945)年4月の日本海軍最後の戦い、沖縄海上特攻(坊ノ岬沖海戦)に出撃する時はどういう心境でしたか?

池田武邦-近影08

この時はね、測的長という、主として電探を担当する最高指揮官の職責で大和はじめ駆逐艦8隻で沖縄に向かったんだけど、上層部からは特攻だから片道分の燃料で行ってこいと命令された。死んでこいと言われているのはよくわかっていたよ。その頃はわずかに残った戦闘機も特攻で出撃していたけど、こっちは軍艦による特攻だよね。今度こそ間違いなく死ぬと思ったけど、さっきも話した通り死ぬ覚悟なんてものはもうとっくの昔にできているから別にどうということはなかったよ(笑)。戦争が始まって、本当に自分の命に未練はないか確かめたくて刀を抜いて自分の腹に当てたことがあったけど、いざというときは躊躇なく切腹して死ねるなと思った。だからこの出撃の時も、これでやっと終わるなという非常にさわやかな気持ちだったね。遺書も書いてない。

敵機の猛攻にさらされる大和
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敵機の猛攻にさらされる大和

海軍が、撃沈されるとわかっていても大和を出撃させたのは、敗戦後大和が残っていたらアメリカに拿捕されて見世物にされてしまう。それを防ぐためだった。大和は日本帝国海軍の象徴だったからね。僕ら矢矧と駆逐艦8隻の使命は大和を守ること。もし沖縄本島まで到達できたら湾に艦を押し上げて最後まで撃てと命じられていた。だからどこに押し上げたらいいかを考えていた。でも沖縄に辿り着く前に鹿児島沖で敵機に発見されたんだ。

矢矧、大和、轟沈

魚雷と爆撃による猛攻を受ける矢矧

魚雷と爆撃による猛攻を受ける矢矧

矢矧は大和の盾になろうとしたけど敵航空機の猛攻で直撃弾12発、魚雷7本を受けて船は大きく左に傾いた。もはや操縦不能となって、水兵が脱出用のボートを降ろそうとしたんだけどものすごく傾斜してるからボートの滑車がうまく機能せず、なかなか降ろせなかったんだ。そんな中でも敵機が爆弾を落としてくるし機銃掃射もすごかった。それでたまりかねて僕が指揮して降ろそうとしたんだけど、水兵に大声で怒鳴ってもバンバン大砲を撃ってるから聞こえない。それでラッタルを降りて現場に行って、ボートのところで指図してようやく着水させた。やれやれと思ってるところに敵機の爆弾が降ってきて、3、4人乗ってたボートが吹っ飛んだんだ。矢矧自体も傾いているところにさらに魚雷が直撃。それで最後は傾いてる側が逆に上を向いて沈み始めた。そして4月7日午後2時5分、完全に沈没。僕ら生き残っていた兵たちは燃料の重油が漂う海に飛び込んだ。

敵機の集中攻撃により爆発炎上し、巨大なキノコ雲を発しつつ沈没する大和

海に入って数十分ほど経ったとき、大和が巨大なキノコ雲に覆われたのが見えた。さしもの世界一の巨大戦艦も数百機の航空機に一斉攻撃されたらひとたまりもなく、被雷8本以上、直撃弾10発以上を食らって沈没。その大和が沈みゆく姿は今でもはっきりと覚えてるよ。

池田武邦

池田武邦(いけだ たけくに)
1924年静岡県生まれ。建築家、日本設計創立者

2歳から神奈川県藤沢市で育つ。湘南中学校を卒業後、超難関の海軍兵学校へ入学(72期)、江田島へ。翌年、太平洋戦争勃発。1943年、海軍兵学校卒業後、大日本帝国海軍軽巡洋艦「矢矧」の艤装員として少尉候補生で佐世保へ着任。1944年6月「矢矧」航海士としてマリアナ沖海戦へ、10月レイテ沖海戦へ出撃。1945年第四分隊長兼「矢矧」測的長として「大和」以下駆逐艦8隻と共に沖縄特攻へと出撃。大和、矢矧ともにアメリカ軍に撃沈されるが奇跡的生還を果たす。同期の中でマリアナ、レイテ、沖縄海上特攻のすべてに参戦して生き残ったのは池田さんただ1人。生還後、1945年5月、大竹海軍潜水学校教官となる。同年8月3日広島に原子爆弾投下。遺体収容、傷病者の手当ても行う。同年8月15日の終戦以降は復員官となり、「矢矧」の姉妹艦「酒匂」に乗り組み復員業務に従事。1946年、父親の勧めで東京帝国大学第一工学部建築学科入学。卒業後は山下寿郎設計事務所入社。数々の大規模建築コンペを勝ち取る。1960年、日本初の超高層ビル・霞が関ビルの建設に設計チーフとして関わる。1967年退社し、日本設計事務所を創立。設計チーフとして関わった霞が関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビルが次々と完成。1974年50歳の時、超高層ビルの建設に疑問を抱く。1976年日本設計事務所代表取締役社長に就任。1983年長崎オランダ村、1988年ハウステンボスの設計に取り組む。1989年社長を退き、会長に。1994年会長辞任。池田研究室を立ち上げ、21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求し、無償で地方の限界集落の再生や町づくりにも尽力。趣味はヨット。1985年、61歳の時には小笠原ヨットレースに参加して優勝している。『軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社)、『建築家の畏敬―池田武邦近代技術文明を問う 』(建築ジャーナル)、『次世代への伝言―自然の本質と人間の生き方を語る』(地湧社)など著書、関連書も多い。

初出日:2016.06.01 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの

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