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2015.12.01  取材・文/山下久猛 撮影/林賢一郎

実家の佛子園へ

──そのタイミングで新聞社を退職したのはなぜですか?

雄谷良成-近影4

当時、実家の佛子園が運営する障害児施設は1つだけ、私が幼少期に育った施設だけでした。その施設から出た知的障害の人は、町の中にあるグループホームに入ったり、軽度の障害の子は就職したりするんですが、中には職場で虐待を受けて施設に戻って来る子もいたんですね。家族同然に一緒に生活したり、自分を育ててくれたような人がそうなっていることに非常にショックを受けました。例えば園から出て牧場に就職したのですが、給料も支払われず、着ている洋服も園にいた頃のままという劣悪な環境でこき使われている子もいました。その上、雇用主から顔を強く叩かれて耳が聞こえなくなっていたり、かなり精神的に追い込まれていて。その人は私の兄のような存在だったのでかなりのショックを受けました。

こんなことがあって、もう実家に戻って障害をもってる人びとが安全に暮らせる場を作らなければいけないと思い、34歳のとき新聞社を退職して、実家の佛子園に入ったんです。新聞社で働いたことで、社会福祉施設を作る仕組みはわかっていたので、県や市、財団法人などに助成金を申請して、重度の障害者支援施設「星が岡牧場」を作りました。さらに障害のある人たちが安心して働ける場を作ろうと1998年に「日本海倶楽部」を設立。その後も必要とされる施設や事業をどんどん立ち上げていきました。その中で2008年に開設した「三草二木 西圓寺」は最初に町づくりに取り組んだ事業で、Share金沢や輪島市の町づくりの原型になりました。

障害をもつ人たちの生活・就労を支援する施設「星が丘牧場」と「日本海倶楽部」
障害をもつ人たちの生活・就労を支援する施設「星が丘牧場」と「日本海倶楽部」
障害をもつ人たちの生活・就労を支援する施設「星が丘牧場」と「日本海倶楽部」

障害をもつ人たちの生活・就労を支援する施設「星が丘牧場」と「日本海倶楽部」

三草二木 西圓寺

──西圓寺はどういうものなのですか?

そもそものきっかけは、10年ほど前に小松市の廃寺になっていた西圓寺の檀家の方から「このままではどんどんお寺が荒れていくので何とかしてくれないか」と相談を受けたことでした。私も実家のお寺の住職で、宗派が違うので最初は断ったのですが、それでもいいですと強くお願いされて。私の方はよくなかったのですが(笑)、他に住職も見つからないし、他の檀家の方は別のお寺に移っているから、お寺としての再生は不可能だったので、せめて昔のよういろいろな人が集まる場所にしようというところから話をしました。そして、条件といったらおかしいですが、障害のある人や高齢者を排除せずに一緒にやってほしいということと、そもそも近隣住民の皆さんがこのお寺を守ってきたので、私が運営するのではなく、今までどおり皆さんが主体的に運営に関わってほしいと提示しました。すると住民の皆さんにご快諾いただいたので、佛子園がお寺の譲渡を受け、障害者や高齢者のサポート施設として再生することになったんです。

まずは檀家の方々と大掃除や修繕から始め、また社会福祉施設にするということで財団や県や市に助成金を申請。このあたりは地下に温泉があるし、住民からもみんなが集まれる温泉を作ってほしいという要望があったので、温泉を掘り、近隣住民の利用料は無料にしました。お堂には昼はカフェ、夜は居酒屋になる飲食スペースも併設。こうして2008年に廃寺は高齢者デイサービス、生活介護、障害者の就労継続支援などのサービスが利用できる社会福祉施設にして、老若男女誰でも気軽に集まれるコミュニティセンター「三草二木 西圓寺」として生まれ変わったのです。

設立以来、老若男女、障害のある人もない人も、いろんな人が温泉につかって、お堂の中に集まって飲み食いしながらわいわい話すというのが日常風景になっています。地元の農産物が買える市も定期的に開催したり、お堂ではライブやコンサートも開いているので常に人びとで賑わっています。元々お寺なので子どもたちの遊び場にもなっています。昔、お寺は日常的に町の人たちが自然と集まり、さまざまな催しが行われる場所でした。住民同士が分け隔てなく、ともに支え合い、暮らしを営むための拠り所だったお寺が今に蘇ったという感じですね。

西圓寺のお堂で風呂上がりにラムネで乾杯する地元の子どもたち

西圓寺のお堂で風呂上がりにラムネで乾杯する地元の子どもたち

西圓寺は宗教法人としては解散して社会福祉法人にしたわけですが、元檀家さんは阿弥陀如来がご本尊として置かれていた場所で手を合わせています。今でもこの場所をスピリチュアルな場所というか、心の拠り所だと思っている人は少なからずいらっしゃるんです。

また、集まってくる人の数が増えただけではありません。例えば地域の中で孤立して長年人と話してなかった一人暮らしのお年寄りも頻繁に来るようになって交流を楽しんでいるんです。こういった人と人との関わりが増えて、密になっていることがとてもうれしいんです。


──すごいですね。そうなっているのはなぜなのでしょうか?

西圓寺には銭湯の番台のような、いつも同じ場所に同じ人がいるから安心して行けるということと、重度の障害をもつ人や日常的に介護が必要な高齢者の人、子どももたくさんいるから、あまり緊張しないですむというか、自然体で人と関われる。だから近所の人とうまくやれない人にとっては自然と馴染める居心地のいい場になっているようです。

西圓寺は常に老若男女、いろいろな人がごちゃ混ぜに集う、地域のコミュニティスペースとして機能している

西圓寺は常に老若男女、いろいろな人がごちゃ混ぜに集う、地域のコミュニティスペースとして機能している


──「三草二木」にはどういう思いが込められているのでしょうか。

そもそもはお経の中にある言葉で、草木は同じように太陽の光や雨の恵みを受けていたとしても、大きいものや小さいもの、太いものや細いものなどあるけれど、いろいろな生き物たちが支え合って生きているのがこの世の中。だから障害をもって生まれた子、何の障害もない子、子どもからお年寄り、元気な人、病気の人など、世の中にはいろんな人がいるけど、だからこそ世の中がおもしろくて魅力的なものになる。それぞれ存在しているだけで価値があり、みんなで一緒に同じ場所に生きているということ自体に意味がある。そういう場でありたいという願いを込めてそう名づけました。名は体を表すというか、実際にそういうふうになってくれたのはうれしいことですよね。さらに西圓寺では私たちが予想もしなかったおもしろいことが起きているんですよ。

雄谷良成(おおや りょうせい)

雄谷良成(おおや りょうせい)
1961年金沢市生まれ。

社会福祉法人 佛子園理事長、公益社団法人 青年海外協力協会 理事長、全国生涯活躍のまち推進協議会 会長、日蓮宗普香山蓮昌寺 住職
幼少期は祖父が住職を務めていた日蓮宗行善寺の障害者施設で、障害をもつ子どもたちと寝食を共にする。金沢大学教育学部で障害者の心理を研究。卒業後は白山市で特別支援学級を立ち上げ、教員として勤務。その後、青年海外協力隊員としてドミニカ共和国へ派遣。障害者教育の指導者育成や農村部の病院の設立に携わる。帰国後、北國新聞社に入社。メセナや地域おこしを担当。6年間勤務した後、実家の社会福祉法人佛子園に戻り、「星が岡牧場」「日本海倶楽部」などの社会福祉施設や、「三草二木 西圓寺」「Share金沢」などさまざまな人が共生できるコミュニティ拠点を作るほか、社会福祉法人としては初めてとなるJR美川駅の指定管理も手掛けている。現在は輪島市と提携して町づくりに「輪島KABULET」取り組んでいる。

初出日:2015.12.01 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの