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2014.06.25  取材・文/山下久猛 撮影/早坂(スタジオ・フォトワゴン)

初めて医師としての本格的な修行を積む

──沖縄の病院での仕事は?

この沖縄の病院でやっと本格的な医者としての修行ができるようになりました。でも仕事場は戦場のようでした。24時間稼働の救急病院なので外来の待合室は昼夜問わず患者さんであふれかえっていたし、深夜でも明け方でもおかまいなしに急患を乗せた救急車がばんばん入ってきて次から次へと重篤な患者さんが運ばれてくる。手術室も病室も常に満室という状態でした。そこら中、血の海になってたり、人が死ぬのが当たり前の状況。突然愛する人を亡くして泣き叫ぶ家族の声が響き渡るような職場だったので、つらくて逃げ出したいと思うこともしょっちゅうでした。それでも何とか耐えつつ、1000人、2000人と診察する間に、新しい職場にも慣れたし、できることも一つひとつ増えていきました。


──そんなつらい状況になぜ耐えられたのですか?

やはり、ボクシングを辞めて最初に移住した和歌山の田舎で、医者としてたくさん給料をもらいながら患者さんに何もできなくて悔しい思いをした経験が大きいですね。ここで医者としての知識と技術を身につけて、今度僻地医療に携わるときはちゃんとした医療を提供できるようになりたいという思いで踏ん張っていました。

ただ、仕事は激務でした。先ほどお話したような戦場のような職場だったので、特に最初のうちは仕事の要領もわからへんので家になかなか帰れないんですよね。目の前に死にかけている人がたくさんいるから仕事は無限にあって、どこで区切ったらええのかわからないわけです。だから子どもたちが起きている時間にはなかなか自宅におることができませんでした。それでも久しぶりに時間が取れて子どもたちとたっぷり遊んだ日の翌朝、病院へ向かうため自宅を出ようとしたとき、当時2歳半の長男に「また来てね!」と言われてしまったんです。これはかなりショックでしたね。僕が仕事をするのは家族のためなので、その家族をここまでないがしろにしていては本末転倒やなと思ったんです。また、この病院で医者としてひと通りのことはやれる自信がついたので、ちょうど2年がたつ頃に沖縄の病院を離れることにしたんです。

山形の病院へ

──その後はどうしたのですか?

山形県庄内町にある同じ系列の病院に声をかけてもらいました。この病院は救急病院とは違って、少しのんびりした医療を展開していた点と、田んぼのある環境で子どもを育てられる点が気に入って異動することにしたんです。ここでは総合診療科のNo.2という責任の大きな職責に就きました。

この病院は外科、消化器外科、消化器内科、循環器内科、心臓血管外科以外の専門医がいなかったので、これらの科で診られない患者はすべて診るというポジションで、循環型のシステムを整備しました。特に力を入れたのは小児医療と高齢者の在宅医療です。


──循環型のシステムとは?

例えば、消化器外科の場合は胃腸関連しか診療しないので、胃の手術が終わったら医療サービスがそこで途切れてしまいます。しかし僕らは救急車で病院に運ばれてきた患者を救急外来で診断、初期治療をして、各専門科が得意でない症例は全て自分たちの病棟で診療します。お年寄りの患者さんの多くはその後自宅に帰っても熱を出したりして救急車でまた病院に帰ってくることになるので、そういうことのないように、患者さんの急性期の治療が終わって家に帰った後も在宅医療で手助けします。とにかく途切れずに患者さんを診るという継続的な医療サービスを確立したわけです。

仕事以外の部分では、病院の近くに田んぼを借りたのですが、お年寄りの患者さんたちに稲作の技術や歴史、精神などさまざまなことを教わりました。僕の子どもたちも地域の皆さんに育ててもらいました。この頃は稲作と子育てを通じて地域に溶け込み、医療という仕事で地域に恩返しをするというライフスタイルを確立し、久々に自分の生活にやり甲斐と手応えを感じ始めていました。

しかし、庄内に来て3年目、半年間の研修のために自宅から20キロ離れた病院へ通わなければならなくなりました。庄内での生活を手放したくなかったので「半年も職場を離れたくない」と上司に訴えたのですが、研修を終えれば総合診療医という資格が取れるから辛抱しなさいと強く勧められたのでしぶしぶ承諾して通い始めました。そんなときに東日本大震災が起こって、医療ボランティアで本吉病院に入り、そのまま院長になったというわけです。(※本吉病院での活動については前編を参照

本吉病院のスタッフと一緒に

川島実(かわしま みのる)
1974年京都府生まれ。医師。

京都大学医学部在学中にプロボクサーとしてデビュー。翌年、薬剤師の女性と結婚し、長女をもうける。3年目にはウェルター級の西日本新人王とMVPに輝くと同時に医師国家試験に合格。29歳までプロボクサーとして活躍し、引退後[通算戦歴:15戦9勝(5KO)5敗1分]、自給自足の生活に憧れ、和歌山県の農村に移住。その後京都府、沖縄県、山形県で医師として経験を積む。山形県庄内町の病院で勤務中の2011年3月、東日本大震災が発生。災害医療チームのボランティア医療スタッフに志願し、山形から毎週末、片道4~5時間かけて宮城県気仙沼市立本吉病院へ通う。気仙沼市からの強い要請で2011年10月、本吉病院の院長に就任。妻と4人の子どもたちを山形に残し、単身赴任開始。2014年3月、本吉病院を退職。現在はフリーランスの医師として週に1回程度本吉病院に勤務。これまでの活動が注目を集め、「情熱大陸」などのテレビ番組出演や新聞・雑誌などのメディア掲載多数。

初出日:2014.06.25 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの

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