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2014.04.15  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

高校卒業後、アメリカに留学

──前編ではコミュニティデザインという仕事についておうかがいしましたが、後編ではまず菊池さんがなぜ現在の仕事をするようになったのか、その経緯についてお聞かせください。菊池さんは高校卒業後、渡米しそれから20年アメリカで生活していますが、そもそもアメリカに留学したのはなぜですか?

私は小さいころいじめにあい、登校拒否も何度か経験しました。そんな私を見ていた母が、アメリカの大学へ留学するという道もあるわよと言ってくれました。母は「この子は日本にいたら絶対潰される」と思ったらしいんですよね。もちろん英語も喋れなかったけれど、日本にいるよりアメリカに行きたいと思い、ボストン郊外の小さな大学に留学することにしたんです。今思えば潜在的に日本から逃げたいと思ったのかもしれません。

──アメリカでの生活はどうでしたか?

やはり慣れ親しみのない環境の中で、最初はたいへんでしたが、漠然と日本よりも居心地がいいと感じたのを覚えています。それでも自信をもって自分の言葉で気持ちや意見が言えるようになったのは、アメリカに渡って3年くらい経ってからでしたけどね。

留学2年目に入った頃、私の運命を決定づける転機が訪れました。たまたま選択したデザインの授業の先生に「あなたのものの見方、考え方がアートに向いているから美術系の大学に入り直してアートを専攻したら?」と言われたんです。それまではこの大学を卒業したら普通に日本に帰って就職するんだろうなと思っていたのですが、その先生からの思いがけないひと言で目の前に新しい未来が開けたような気がして、ボストン大学芸術学部彫刻科に編入しました。大学では溶接から造形までいろいろなものを造りましたね。

卒業後もアートをもっと深く勉強したくてタフツ大学の大学院へ進学しました。大学院ではポストモダリズムや現代アートのコンセプシャリズムなどアートの思想の分野を研究する一方で、パフォーマンスアートにも没頭し、当時国内外いろいろな場所で作品を発表していました。それで自己満足的な自己表現はやりきった感があったのでやめたのですが、同時に、「モノ」を通じての表現ではなく、ライブで何かを人に伝えることのおもしろさと難しさを知りました。そして、将来アートにかかわることを何かしたいと思っていました。

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オノ・ヨーコさんのGrapefruit40周年記念展覧会で、1964年のCut Pieceを再演

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大学院時代の友人と。初めて信頼できる仲間と出会った

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卒業制作「FEAST」の様子。食べもので作った紙と格子のインスタレーション。そこで、10人による食とアートのパフォーマンスを展開

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自主企画でボストンのチャイナタウンにある小劇場のショーウィンドーを3日間使用して、CultureClubingというイベントを開催

実践を通して学ぶ

タフツ大学はボストン美術館の系列の大学と連携していて、私たち学生はボストン美術館付属のスクール(School of Museum of Fine Arts)で活動しつつ、学位はタフツ大学で取っていました。このとき、初めてコミュニティアートというものに取り組みました。例えば「地域の中でアートを展開するとはどういうことか」をメインテーマとしてみんなでいろんな団体と連携したり自分たちでNPOを立ち上げたり。そんな中、教授のお手伝いとして地域に出かけていろんなワークショップを行う練習をしていました。

Youth Art In Actionという地域ユースと大学生の連携授業を担当

プログラムに参加した地域ユースと

同時に、アートの思想を勉強していく過程で、なぜ、誰のためにアートをつくるのか、アートの役割は何なのか、また、アーティストとして、モノをつくるのではなく、アイディアを具現化しないというか想像力を使って何かをする方法はないのか。また、日本人として、日本人女性として何をすべきなのかということを考えていました。悩んでいたちょうどその頃に大学院で取っていた「1945年以降のフェミニズム」という授業の担当教授に、「オノ・ヨーコは名前だけは知っていると思うけど、深くは理解していないと思うから著作を読んでごらん」といわれました。これが私にとってまたしても大きな転機になりました。オノ・ヨーコさんの作品やその活動を知れば知るほど、伝えたいこと=メッセージの重要性、もしかしたら本当にモノをつくらないこと、モノに頼らないことでアートがいろんなことを変えていけるかもしれないという、アートに希望を託せるような気持ちになったんです。

マサチューセッツ工科大学へ

また、オノ・ヨーコさんは『Yes Painting』という作品を通して、何事に対してもノーと言うよりもイエスと言う方がたいへんだということを説いていて、それにも大きく影響されました。そんなとき、タイミングよく全米はじめ世界中を巡回していたオノさんの「YES YOKO ONO展」(自身の芸術活動40年間を振り返る回顧展)がマサチューセッツ工科大学(以下、MIT)に来ることを知り、絶対にオノさんに会いたいと思い、何度も電話してインターンシップを申し込んだところ、2001年、タフツ大学大学院卒業間際に、MITリストヴィジュアルアーツセンターでインターンシップとして働くことを許可されたのです。そして念願だったオノさんの展覧会を担当できました。大学院時代、ずっとオノさんの作品の研究をしていただけに初めてお会いしたときは感動しました。会いたいと思い続けて本当によかったと思った瞬間でしたね。その後、インターンの期間は終わったのですが、そのままMITに就職しました。


──MITではどのような仕事をしていたのですか?

"Education and Outreach Coordinator"が正式な役職名です。エデューケーションプログラム、パブリックプログラム、広報など、外に向けたすべてのプログラムの企画・コーディネートを統括していました。アートとオーディエンスを繋げる仕組み(オーディエンス・エンゲージメント)をつくることが主な仕事だったのですが、その際に、大学という地域だけではなく、その近隣の地域、それからアートファンへの働きかけなど、古い言葉でいえば「アウトリーチ」、今の仕事の言葉でいえば「エンゲージメント」の仕事をしていました。具体的には、MITの学生に向けたアート・エデュケーションプログラムや大学のセミナー、地域と連携してアートに関わる業種について若者に教えるワークショップ型のプロジェクトなど、アートを使って地域を活性化させるためのいろんなプロジェクトにかかわっていました。前回お話した台湾のトレジャーヒル・アーティストビレッジプロジェクトに関わったのもこの頃です(※インタビュー前編参照)。

また、学生に現代アートのおもしろさをもっと直接的に伝えたいという気持ちが強かったので2004年からは教育課程主任アドバイザーおよび講師として、現代アートに興味のない学生にそのおもしろさや魅力をどう伝えるかという仕事に取り組んでいました。

菊池宏子(きくち ひろこ)
1972年東京都生まれ。コミュニティデザイナー/アーティスト/米国・日本クリエィティブ・エコロジー代表

1990年、高校卒業後渡米。ボストン大学芸術学部彫刻科卒、米国タフツ大学大学院博士前期課程修了(芸術学修士)後、マサチューセッツ工科大学・リストビジュアルアーツセンター初年度教育主任、エデュケーション・アウトリーチオフィサーやボストン美術館プログラムマネジャーなどを歴任。美術館や文化施設、まちづくりNPOにて、エデュケーション・プログラム、ワークショップ開発、リーダーシップ育成、コミュニティエンゲージメント戦略・開発、アートや文化の役割・機能を生かした地域再生事業や地域密着型の「人中心型・コミュニティづくり」などに多数携わる。2011年帰国。「あいちトリエンナーレ2013」公式コミュニティデザイナーなどを務める。現在は、東京を拠点に、ワークショップやプロジェクト開発の経験を生かし、クリエイティブ性を生かした「人中心型コミュニティづくり」のアウトプットデザインとマネージメント活動に取り組んでいる。立教大学コミュニティ福祉学部兼任講師、NPO法人アート&ソサエティ研究センター理事なども務めている。

初出日:2014.04.15 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの