ミカサ・ヒストリー

「夢のかたち」~ミカサ開発ストーリー

動くものへの情熱

戦後、多くの企業が復興のため日用必需品の生産から再起を図ったように、オカムラも生活用品の製造からスタートしました。1947年からは駐留米軍からアルミ製のトランク、ブラインド、ジープのトップカバー、自動車のナンバープレート、さらには米軍の飲食用のクラブで用いるスチール製家具の発注を受け、製造を開始しました。米軍からの注文に応えていくうちに、オカムラ・ブランドの認知度と製品の評価は日に日に高まっていきました。

創業当時製造していた日常生活用品
スチール製のクラブ用テーブル&チェアセット
創業者・吉原謙二郎

「生きる」ために需要のある日常生活用品の製造から始めましたが、吉原をはじめとする創業以来の技術者たちは、長年にわたって磨き上げた自らの技術を活かした「動く製品」開発への夢や情熱を失ってはおらず、その関心は、当時街中でよく目にしたスクーターに注がれました。
米国製スクーターを解体、改造してテストを繰り返していたある日、米軍将校が自身のスクーターの修理に来ました。そこには、正規品にはない流体継手(フルカン継手)が動力伝達部分に装着されており、オカムラの技術者たちの目をひきました。
それが後に、国内初の「トルクコンバータ(流体変速機)」開発へ動き出すきっかけとなりました。

飛行機から車へ

1952年のある日、航空力学の権威である日本大学教授が、朝日新聞社が主宰する「日本学生航空連盟」の学生たちを指導して軽飛行機を製作するとの情報が入りました。創業者・吉原謙二郎が在籍していた日本飛行機株式会社時代からの優秀な航空技術者が揃っていたオカムラの評価は高く、朝日新聞社と試作機設計・製作の契約を結ぶに至り、さまざまな実験と試行錯誤を繰り返した末に完成しました。
「N-52」と名付けられたその航空機は、1953年4月7日に静岡の浜松飛行場で初飛行が行われ、戦後の国産飛行機の飛行成功例の一つとして現在も語り継がれています。

このような成功を収めながらも、コスト面で航空機製造の事業継続は困難と判断し、N-52以降、オカムラが航空機産業に関わることはありませんでした。

一方で技術者たちは、昼は生活用品の生産にいそしみ、夜はトルクコンバータの開発に取り組む日々を送っていましたが、実用化は困難な状況でした。

そこで別の角度からの検討を行い、米国製の車に装備されていたトルクコンバータをヒントに新たな方向性で開発が進み、1951年、ついに画期的な純国産トルクコンバータの開発に成功しました。
このトルクコンバータは1952年に日本国有鉄道(現・JR)の防爆型ディーゼル機関車へ採用されたのを機に、集材機、産業・建設機械のフォークリフト、ショベルカー、ブルドーザーなどさまざまな分野で活用され、裾野が広がっていき、その目は将来的に有望な市場が見込める自動車産業にも注がれていきました。

見事飛行に成功した「N-52」
日本初の純国産トルクコンバータ
オカムラ製オートマチックトランスミッション「ノークラッチOKドライブ」

将来の日本に求められる自家用車として

オカムラの自動車開発チームは、当時フランスで人気だった大衆車「シトロエン2CV」を見本として研究開発を進め、エンジンは強制空冷2気筒のフラットツイン、トルクコンバータと二段変速機を組み合わせた自動変速機(AK-4型、愛称「ノークラッチOKドライブ」)を搭載し、ボディには航空機の薄板加工技術が用いられ、内装も家具製作の技術を活かして、すべて自社で設計・製造しました。

1955年、オカムラの総力をあげ、培ってきた技術を余すところなく投入した自動車試作第1号は、当時としては画期的な前輪駆動FF(Front-engine Front-drive) 方式、国内初のトルクコンバータ式オートマチック車(586cc)のセダン型自動車として完成しました。この記念すべき第1号車は「ミカサ」と命名されました。

ミカサは、1957年5月に東京・日比谷公園で行われた「第4回全日本自動車ショウ」(現在の「東京モーターショー」)でデビューし、同時開催の「トルクコンバータ工業展」では性能が大きく進展したトルクコンバータも出品し注目を集めました。英国のある車情報誌は、ミカサを「恐らく世界最小のトルクコンバータ装着車」と報じ、さらに翌年にはスポーツモデルの「ミカサツーリング」を発表し、オカムラのトルクコンバータとミカサは自動車業界でも注目を集める存在となりました。

「第4回全日本自動車ショウ」で初めてお披露目された「ミカサ」
「トルクコンバータ工業展」でのオカムラのブース
「ミカサ」のラインナップ(左から「ミカサツーリング」、サービスカー「ミカサマークI」、「ミカサマークII」2台)

性能が評価されたトルクコンバータは他社にも供給された

『OKマチック』として自動車用自動変速機開発に成功したオカムラは国内の主要自動車メーカーにもオカムラ製トルクコンバータを部品として供給し、さらに自動車メーカーに自動変速機開発のための技術供与を行うなど、日本における流体トルクコンバータの先駆者として、日本の自動車用自動変速機の普及に貢献しました。

自動車事業からの「勇気ある撤退」

オカムラは「ミカサ」の量産体制を築こうと、生産拠点の整備や新たな生産ラインの増設を始めていました。しかし自動車の研究開発から製造と販売にかかる莫大な資金回収の問題は解消しきれず、1960年春、「ミカサ生産打ち切り」の経営判断が下されました。苦渋の選択、涙を飲んでの生産中止でしたが、当時は世間から「勇気ある撤退」と評されました。
3年間に世に送り出された「ミカサ」は約500台で、そのほとんどがサービスカータイプでした。

自動車メーカーとしての夢はついえましたが、当社製のトルクコンバータは「動く製品」への情熱がもたらした「夢のかたち」となって今も産業機器などの分野で活躍しています。

そして、「ミカサ」のモノづくりの遺伝子は、現在のオカムラの製品づくりに受け継がれています。

ミカサ諸元表

機械遺産に認定された技術

2015年7月24日、日本初のトルクコンバータ式オートマチック・トランスミッション車である「ミカサ」に搭載した1951年開発のトルクコンバータが、一般社団法人 日本機械学会により「機械遺産」(※)に認定されました。

※「機械遺産」は、歴史に残る機械技術遺産を大切に保存し、文化的遺産として次世代に伝えることを目的に、日本国内の機械技術に関わる歴史的遺産を一般社団法人日本機械学会が認定するものです。